2008年12月08日(月曜日)


ホンダがF1を撤退するのは、一つの時代が終わったなと感じさせるものがあるけれど、しかし、決断としてはけっして早くはない。1年早かったら英断だったし、2年まえの判断がそもそも疑問だった、とも思う。トヨタは、レクサスがどうなんだろう。一等地にガラス張りのショールームをつぎつぎ作ったときはいつだったか。あのときに、「こんなことをする時代だろうか」と僕は感じた。大きなRVを奥様が運転して、駅まで夫を送っていく光景を見るたびに、「どうしてこんな大きな車が必要なんだ?」と思って久しい。 だけど、企業っていうのは、つまりそういうものなんだな、とも感じる。早め早めに手を打って、時代に最適な姿で存続するよりも、とにかく大きくなるだけ大きくなって、潰れるときはばたんと倒れる、というパターンの方が美学なのかもしれない。同様に、個人の生き方も、べつに合理的で無駄なく生きることが最善ではない場合だってある。自分なりの美しさをどこに求めるのか、という違いか。

via: MORI LOG ACADEMY: それぞれの美学


問題が解決できないと悩んでいる人は、解決の方法を知らないのではなく、それがやりたくないだけだ、という法則を何度も書いている。すると、「脚に不具合を抱えている人は、脚を切る方法を知っているが、それをしたくないだけなのか?」という反論が来る。 そのとおりなのだ。脚を切るしか解決の方法がない場合には、脚を切るか、切らないか、の判断になる。人間であれば、現代の医学はそういった決断を下すことが多い。また、企業の存続をかけた変革も、普通はこのような犠牲を伴うものだ。それが、「痛いからできない」と悩むことで、判断が遅れることがもっと酷い事態、致命傷になるときもある。 また、不具合を遠ざけることが目的なのか、それとも、原因を探り、その不具合から起こる危険に対処することが目的なのか、という違いもある。当面の不具合を遠ざけることが命に関わる危険につながることだってあるからだ。 たとえば、自分の店が経営難に陥っている場合、店を存続させることが目的なのか、あるいは、従業員の生活を守ることが目的なのか、自分を含めて、痛みをどう切り分けるのか、という問題になる。こういったときに議論をすると、それぞれが自分の痛みを少なくする方向で押し合いになるし、相手の痛みが理解しにくいうえ、さらには、楽観的な人間と悲観的な人間で予想がずいぶん異なるから、見かけ上問題が複雑になる。 犠牲を出すことはしかたがない、という共通認識を一刻も早く持つこと、これが常に一番大切である。まだなんとかなる道がある、と諦めない人がいると、これに引っ張られ全体の判断が遅れる。抽象的な表現をしたが、だいたい、これで危険が拡大する場合が多い。 今回は早く決断ができた、とそのときは自己評価していても、あとになって振り返ると、それでも遅かったというものがほとんどである。おそらく、個人よりも集団が劣っている唯一の欠点が、この遅さだろう。

via: MORI LOG ACADEMY: 判断の遅れ