2008年10月15日(水曜日)
このところ、柄にもなく教訓めいた話を書いているが、もちろん最後を意識して、これまでに書いたことのうち、もう一度くらい書いても良いかな、と思える一般的なテーマ選んでいるにすぎない。僕は、たとえば学生や友人や、そして自分の子供たちにさえ、日頃こういったアドバイスをすることはまずない。どんなケースであっても、一番適切な判断ができるのは当事者本人である。他者にはけっして見えない事情があるから、参考意見を述べることはできても、判断は当事者が行う以外にない。 だから、ここに書かれていることは、抽象化された「綺麗事」である。そして、綺麗事の価値とは、それを受け止めた人間が、自分の条件に当てはめて考えてみる、その考えてみるという行為そのものにある。言葉の力が、考えてみようという気にさせるわけだが、結局は、考えるその人間の意志の力から発する。アドバイスとは、そういった効用以上のものではない。それで悩みが消えたり、問題が解決したりしても、アドバイスのおかげではなく、あくまでも当事者の能力によるものだ。 しいて例を挙げるならば、音楽と似ている。好きな音楽を聴いて、やる気になったり、元気になったりするけれど、音楽にその能力があったわけではなく、聴いた者が、自分の力で立ち直っているにすぎない。逆にいえば、立ち直れない人、落ち込んでいる人は、自分のせいでその状態に陥っている。自分でその状態を無意識のうちに許容しているから、そのままなのだ。
さて、「支配度」について書こう。人間は誰でも他者に支配をされている。社会とはお互いに支配し合う仕組みのことである。ただ、その度合いが人によって様々だ。僕は、できるかぎり支配を受けたくない人間だ。自分のことは自分で決めたい。自分の思ったとおりに行動したい。自分で一度決めたことが、他人の関与で取り消さなければならないという事態を避けたい、と考えている。自分で決めていれば、約束を破るようなこともない。自分の大事な人に対して誠実であるためには、他者からの支配を受けないことが必要だと考えている。 だが、若いときには、これがとても難しいだろう。たとえば勤め先の事情で時間を左右される。自分よりも偉い人間が大勢いるのだから、どうしても振り回される。それでも少しずつ、そういったことがないように立場を築こう。支配がまずいことだと自覚していれば、いつか必ず支配からは逃れられる日が来る。支配が普通だと諦めれば、支配されたままになる。 結局、「大人になる」とは、支配から卒業することだと僕は思う。