2008年09月13日(土曜日)
僕の観測によると、人間は歳を取るほど、あらすじを追うようになる。ディテールはどうでも良いから、本筋を早く知りたい、と思うようだ。逆に、若者ほどディテールに拘る傾向がある。どちらが良い悪いという話ではない。 やはり、年齢とともに経験を積んでくると、「で、結局どうなったの?」という具合に、ついつい先回りしてしまう。せっかちになりやすい、ということだろう。人の話を聞いているとき、なかなか待てない。そのわりに、自分の話になると、ディテールから話そうとするから、お互いに相手の話を聞かなくなる、というジレンマに陥りやすい。若者が、お互いに内容のない(結論の出ていない)話を延々とディテールだけで語り合えるのは、本質から外れたところに興味が持てるためだろう。 小説にも、ディテールに凝ったものとストーリィ展開を重視したものがある。僕は小説とは前者であると認識をしていたのだが、最初に後者の小説だと感じたのは、シドニィ・シェルダンだったと思う。30 年くらいまえにちょっと流行した。しかし、なんだかTVドラマを見ているみたいで、べつに小説にしなくても良いのではないか、と感じた。当時は、ライトノベルスなる呼び名はまだなかったと思うけれど、もちろん、日本にもそういった類の小説は沢山あったはずだ。 ストーリィはあるが内容がないな、と感じる物語は多い。しかし、人によっては、ストーリィが内容そのものだと認識している。たとえば、読書感想文に、あらすじを書く人がいるけれど、あらすじを把握することが小説を読むことだと考えているみたいだ。あらすじを一切書かないと感想文が書けない、なんて人もいる。「じゃあ、何のために小説を読んだの?」と僕なんかは思ってしまうのだが……。
レストランなどで、「熱いので気をつけてお食べ下さい」なんて言われる世の中になったな、と嘆いたのはもう 20 年もまえのことだっただろうか。しかし、今日、スバル氏がたこ焼きを買ったとき、店員さんが、「美味しくお召し上がりになりますように」と言って手渡した。スバル氏は少し歩いてから、「なかなか丁寧な店やね」と感心していた。ほんの少しの言葉で、やはり気持ちが良くなることがあるのだな、と感じることは多い。「お食べ下さい」ではなく「お召し上がり下さい」と言えると、一皮剥けるわけだ。 「見ていただく」も、「ご覧になる」と言い替えられると良い。つまり、「お」がついたり、「れる」「られる」「いただく」などで丁寧、謙譲の表現になるところを、言葉自体が別のものになるパターンが少数ある。「召し上がる」「ご覧になる」「頂戴する」「お目にかかる」「お越しになる」「伺う」「おっしゃる」「拝見する」「拝読する」「参る」などなど。多くはないから、それだけマスタすると、だいぶ違う。 以前にも書いたが、丁寧語、尊敬語、謙譲語などは、幼稚園や小学校の低学年で教えるべきものだ。英語を教えるよりは簡単だろう。子供が一番使わなくてはいけない言葉遣いだからだ。また、子供どうしも、お互いに丁寧な言葉を使うべきだ、と僕は思う。中学や高校になってから使えという方がおかしいし、まして就職して社会人になってから覚えるようでは、身につかないだろう。 子供のしゃべり方を見れば、その家のレベルがわかる。何のレベルかって? もちろん、人間のレベルである。富や権力や社会的地位のことではない。スバル氏は、「犬でその家がわかる」とおっしゃっている。