2008年09月10日(水曜日)


相対評価と絶対評価について。 自分の好き嫌いで、自分のために選ぶものは絶対評価で良い。基準がしっかりとあるし(ない人もいるようだが)、他人には無関係だ。自分が好きなものを知っている人は惑わされることがない。ただときどき、自己資金に大きな変動が生じるなど、条件が変わったときに迷ったりするだけだ。 一方、商品のように世の中に出ていくものは、必然的に相対評価される運命にある。人間も、社会の中で評価をされるわけだから、明らかに相対評価の対象となる。 小学校の成績は、僕が子供のときは相対評価だった。クラスで1割の人数だけが「5」をもらうことができた。あるとき、絶対評価に変わって、何人でも「5」がもらえるようになった。僕は、これは社会の価値観とかけ離れているな、と感じた。もちろん、子供たちに満足感を与える「ゆとり教育」なのだから、悪いとはいわない。でも、そういうところで「5」をもらった子供が社会に出て、「何故、自分の価値をみんなは認めないのだ?」と疑問に思う可能性はあるだろう。

機能的にはっきりと優劣がつくものは、絶対評価でも良い。カタログデータなどがそうだ。しかし、ファッションとかアートとかエンタテインメントなどは、流行のものであるし、目新しさ、稀少さが価値を生むことが多い。そうなると、「多い」というだけで厭きられる理由になる。同じものを繰り返すわけにもいかない。みんなが5ばかり取れば、少ない3の方がブームになることだってあるのだ。つまり、良いものを作っていれば大衆はついてきてくれる、という法則は必ずしも成り立たない。これは控えめに書いた表現で、本音でいえば、大衆は良いものなんかわからない(あるいは、求めていない)、といっても良い。「良いもの」自体がマイナだからだ。 したがって、良いものよりも、少ないもの(珍しさ)を狙った方が、当てること自体は簡単だ。大きくは当たらないが、少なくとも、そこそこに当たる確率は高い。安定したビジネスチャンスがそこにはある。「マイナ」がこんなに沢山商品になって世に出てきた経緯は、こんなところだろう。

via: MORI LOG ACADEMY: 相対評価の必要性