2008年08月19日(火曜日)


8/11 に「不運」について書いたら、けっこう沢山のメールをいただいた。べつに、そんなに励ましたつもりはないし、優しい言葉でもないと思うのだが、そういう方向へ解釈した方が多かったようだ。そのままにしておけば良いところだけれど、少し補足しておこう。というのも、多くの人が、「不運」と「失敗」を混同しているように見受けられたからだ。 自分の努力や注意の不足によって、ものごとが上手く運ばなかった、それで落ち込んでいる、という状況は「不運」とは僕はいわない。それは、「運」がなかったわけではないからだ。そんな条件で上手くいけば、それこそ「幸運」ではある。原因のある「失敗」は、原因を取り除かないかぎり何度も起こるし、さらに悪い状況を生む可能性があるから、ぼんやり次の「幸運」を待とうなんて、いっていられない。 不運というのは、やるだけのことはやった、自分の能力ならば最低これだけの結果は得られるはずだと安全側に予測していたのに、自分にはどうにもできない不可抗力によって邪魔が入り、その最低の結果も得られない場合のことだ。もちろん、不慮の事態を想定して、安全率を高めておけば、ある程度は不運には対処できるけれど、やはり予想を上回るアクシデントが発生する可能性もあるし、また、危険性を充分に理解できていても、それ以外に代替可能な方法がない、つまりそこに賭けるしかない、という場合だってある。駄目だったときは「不運」だと思うしかない。だから、その場合は、まあ次は大丈夫だろう、と前向きに考える以外にない、という話を書きたかった。 ときどき観察されるものとして、毎日その日その日を楽しく過ごすと、ある日大きな不幸がやってくることがある。イソップ物語のキリギリスのようなものだ。その代わり、毎日少しの不幸を我慢すると、いずれ幸せな日が来る。これは、貯金みたいなものだ。これらは、不運とか幸運といったものではなく、予測できる必然である。

「ああ、こんな生活していて良いのだろうか、まあ、今日はいいんだけれど、将来が不安だな」と感じている人は多いと思う。その予感は正しい。そんな正確な予測ができる人が、どうして自分の感覚を信じないのだろう。それは、確率的に極めて低い「そのうち、なにか幸運が舞い込む」という期待を持っているからなのか。だとしたら、自分の人生を宝くじに賭けているようなものだ。宝くじよりも何万倍も成功率と期待値が高いのは、ごく普通の「勤勉」である。

via: MORI LOG ACADEMY: 不運と失敗は違う