2008年08月09日(土曜日)


話は変わって、作品とその評価に関して僕がときどき感じること。 ある作品があったとき、僕はそれに触れて、まずその評価をする。その作品の価値がそれで決定する。これは、その作品の「位置を知る」ということ、あるいは「自分との距離を測る」という行為に似ている。 次に、僕以外の人たちが、その同じ作品について評価するのを聞くと、僕には、その人たち個々が、その作品とどんな位置関係にあるのかがわかる。結局、どこにその人たちがいるのか、その人たちの位置や、僕からの距離が判明する。ここで大事なのは、その人たちがその作品をどう評価しようが、作品の価値(僕にとっての作品の位置)は不動だということ。 こういう見方をしていると、みんなの意見を聞くことによって、どこにみんながいるのか、がわかる。そして、創作者としては、次はどのあたりに作品を持っていこうか、という発想ができる。大砲を撃っているイメージで、「そこに目標があるなら、今度はここへ撃ってみよう」という狙い目になるのだ。 ところが、一般の方の話を聞いていると、多くの人は、他人の評価によって、自分が一度評価したはずの作品の価値を変更してしまう。あるいは、自分で見たものなのに、「これは人が見たら、どうなのか」ということばかりが気になる。このように、他人の評価によって、作品の位置を動かしていると、作品の価値も定まらないし、同時に、みんながどこにいるのかもわからなくなる。こういう見方(測定方法)をしている人は、次の弾が撃てないだろう(だから、創作者には向かない)。 自作について、「酷評されても嬉しい」と書いたことがあるが、これはつまり、この感覚なのだ。いくら酷評されても、作品の価値は不動であり、その作品から離れたところに人がいることが発見できる。近くで弾(作品)にヒットした人たちは、もともと観測されていた群衆だから、褒められても、確認にしかならない。むしろ、「あ、あんな遠く離れたところにも人がいるぞ」と見つけられたときの方が面白さがある。

via: MORI LOG ACADEMY: 位置を測って撃つ


推理小説に登場する「推理」で、論理的なものなど一つもない、ということは既に何度も書いているところだ。もし、あの程度で「論理的な推理だ」といえるとしたら、それはその人に「論理性」がないからである。 少なくとも、数学的な論理性ではない。有名なジョークにあるが、イギリス旅行中の車窓から黒い羊が見えたとき、「あ、イギリスの羊は黒いんだ」と口にするのが文系、それを理系が、「イギリスには黒い羊がいる、というだけのことだ」と窘める。しかし、それを聞いていた数学者は、「我々にわかったことは、羊のように見える動物の、こちら側が黒い、ということだけである」と言う。 まるで三段論法のように、AだからBであり、BならばCだ、というように論理が進むけれど、そのAがどれくらい確かなものか、そして、Aならば必ずBであるのか、という点に疑問を持たなければならない。誰かが「赤い車を見た」と話したくらいで、赤い車が存在したことを信じてはいけない。せいぜい「赤く見える色の車らしいものがあった可能性がある」という程度だ。また、「Aならばほとんどの場合Bである」という程度の関係性を持ち出して、対応を決めつけてしまう点も非常に危険である。 そのうえ、「心理学的にこんな行動はありえない」といった論理が登場すると、もう五里霧中といって良い状況に陥る。たとえば、「もし彼が犯人だとしたら、わざわざ自分が犯人だとわかるような証拠をどうして残したのでしょうか? おかしいではありませんか。すなわち、これは、彼以外の者が、彼を陥れるためにやった行為なのです」という論理で、ほとんどの殺人犯は無罪になってしまうだろう。「ごめんなさい、なにも考えていませんでした」という人が一人でも現れると、すべての論理は崩れ去ってしまうのだ。

via: MORI LOG ACADEMY: 危うい論理性