2008年08月02日(土曜日)


大学で実験をするときに学生に注意をすることは、「とにかく、恐々、及び腰でやりなさい。ちょっとしたことにも、びっくりすること」と指導している。怪我をするのは、むしろベテランになった職員や院生なのである。初心者が大怪我をすることはまずない。学科では一番危険で、重量物を扱う実験をしていたけれど、幸い、学生が大怪我をするようなことはこれまでない。教える先生が、恐々やってみせるのが一番教育効果があるようだ。 ようするに、どんなものでも、「やってみせる」ことが、「口で教える」ことに優る。子供に勉強しろと言うよりも、大人が勉強してみせる。動物の親は子に、すべてこれで教えている。

via: MORI LOG ACADEMY: アライグマの撮影に成功!


もう何年もまえに、高校野球のチームが同じ学校の生徒の不祥事で出場できなくなる、なんてことは実に封建的であり、異常なことだ、という文章を書いた。ようやくこの頃、「べつに本人たちは悪くないのだから」という方向へ世論が傾いたようだ。ようするに、当たり前のことに近づきつつある。高野連が審議をするまでもないことだし、また、学校の校長がマスコミに向かって頭を下げたりする必要もないことだと僕は思う(当然ながら被害者に対しては謝罪が必要だろう)。そもそもニュースになることさえ不思議なレベルだ。 誰かが頭を下げないと、腹の虫がおさまらない人たちが多いのだろうか? 本来は悪いことをした本人が、被害を受けた当人に謝るべきものであり、そのコメントを発表する場はあっても良いかもしれない。しかし、犯罪の場合は、償いは本人がするわけだし、裁判があるのだから、会見は難しい。 本人の親族が公の場に出てきて謝るなんてことはしなくても良い。そんな場を期待するのもおかしいと思う。まして、学校とか、会社とか、所属している組織の上司や長が、「監督不行届きでした」と一般大衆に向かって頭を下げるのは、明らかに不自然だ。そういうものを見て、納得するような大衆がいるとしたら、それは大衆のレベルが低いとしかいいようがない。家族と一緒に行動しているときだったとか、仕事中にだったとか、それならば話は別だが、一人で自由に行動している間のことだったら、「監督」って何だ?という話になる。日頃から気をつけておいても、防げない類のものはあるだろう。犬みたいにリードをつけておけ、という意味だろうか? 以上は、少々言いすぎだとは思うけれど、いちおう書いておく。上記のような過剰な謝罪が、結局は、「親を困らせてやろう」「学校に復讐したかった」という動機の基になっていないだろうか。

via: MORI LOG ACADEMY: 連帯責任と過剰な謝罪