2007年12月30日(日曜日)


近頃の社会を傍観して感じることは、昔よりも正論が通る社会になりつつある、ということ。悪いことは悪い、してはいけない、という単純なことが、少しずつ厳しく守られるような仕組みになってきた。かつては、誰もが社会は二重構造だと認識していて、表向きはこうだという建前があって、しかしその実は違う運用を裏ではする、ということが常識だった。陰でこっそり、みんなで少しずつ悪いことをしていたのだ。ただ、悪いことだから、そんなにおおっぴらにはできない。「こんなこと、したくはないんですけどね」と愚痴りながらしぶしぶやっていた人が多かったのではないか。「まあ、少しくらいはしかたがない」とみんなが諦めていた。そういったことが正されてきたわけだ。 一方、正論が通ることで問題も生まれる。そもそも、何故正論が通らなかったのか、と考えればわかるが、まず、個々の正論が全体の正論と必ずしも一致していないこと、また、全体合意の正論であっても、それを実現するには資金や労力が足りないこと、などの問題があった。だからこそ、正論が通らない時代が続いていたのだ。 たとえば、「弱者を救う」というのは正論である。救えるのなら救った方が良いにきまっている。しかし、どこまでが弱者なのかという議論もあり、また、救うための資金はどうするのかという問題が現れる。正論を通すためには、社会にある程度の余力が必要なのだ。そして、その余力とは、つまりは個人の富と力の負担によるものだから、「正論を通すために、あなたはどこまで犠牲が払えますか?」という議論に帰着する。現在、暗黙に問われていることは、まさにこれだろう。

via: MORI LOG ACADEMY: 正論が通る社会