2007年12月21日(金曜日)
多くの作品は、作品自体に価値があるのであって、それがどのような経緯で作られたのか、といった履歴とは切り離して評価されるべきものだ、と僕は考えている。作品に限らない。仕事も同じ。誰がやったのか、どれくらい苦労したのか、はどうだって良い。無関係だ。結果を見て、取るか取らないか、それだけの判断だと常々思う。 だから、苦労話が僕は嫌いだ(聞くだけ時間が惜しい)。成功した人間の一部は、自分が苦労人だと力説する傾向にある。特に、小さな成功の場合ほど多い気がする。けれど、そんなの聞かされても、同じ苦労をすれば成功するなんてことはまずない。それは「ノウハウ」でもなんでもない。多くは、もっと褒めてもらいたい、という心理からなされるものであって、ようするに自慢だ。 ただ、例外もある。たとえば、ちょっとした「言葉」や「意見」がそうだ。論理的に説明するような文章は、その内容に価値があるけれど、短い言葉や意見の場合、それをどんな人物が口にしたのかということで価値が変動する。たとえば、F1ドライバが「雪道は恐いな」と言うと、「おおっ」と思ったりするわけである。つまり、語り手のバックグラウンドが、言葉の価値を左右しているのだ。 小説に登場するキャラの台詞も、こんな具合にきっと増幅されるのだろう。このため、小説を読む人は、フィクションの中に、自分を導く真理を見つけようとする傾向がある。でも、小説を読み慣れない人間からしてみると、架空の人物の台詞なんか、まったく重みがない(どうせ作りものだ)。だから、ノンフィクションの中で真理を探そうとする。両方の人たちからファンメールをいただくので、違いが際立って僕には見える。