2007年12月15日(土曜日)


このまえ、雑誌のインタビューで、「タイトルをどうやって考えるのか?」と質問された。どうやって考えるのか、というようなことが言葉で「こんなふうです」と説明できるとはとても思えないが、「まあ、そうですね、3カ月くらいかけて、200 や 300 の案を考えて、そこから絞り込みます」と答えたら、驚かれた。 「考える」という言葉を非常に安易に使っている人が多いと思う。学生に「考えてきたか?」と尋ねると、「考えましたが、ちょっと良い案を思いつかなくて」と言う。「じゃあ、悪い案を幾つか見せなさい」と言うと、きょとんとした顔で、「いえ、悪い案も思いついていません」と言う。「考えましたが、まだ、ちょっとまとまらなくて」と言うから、「では、まとまらないものを見せて下さい」と言っても、たいてい見せてもらえない。 こういうのは、僕の場合「考えた」とはいわないのである。 「いろいろ考えてはいるんですけどね」と言い訳する人には、その「いろいろ考えたものを見せてくれ」と頼む。ところが、たいていは、せいぜいあっても1つしか案がない。1つの案しかないのに「いろいろ」なんて言うなよ、と思う。1つでは選べない。これでは何を考えていたのか、問いたくなる。

「どうしても、思いどおりに小説が書けません。どうしたら、良いでしょうか?」と尋ねられることも少なくないのだが、そういうときは、「思いどおりに書けなかった小説を見せて下さい。何作くらいあるんですか?」ときき返す。1作も書けていない人が多い。1作も書いてないのに、どうして思いどおり書けないなんて言うのだろうか? 書いてから悩めば良いではないか。書けない書けないと悩む人がいるけれど、書けないなんてことはない、なにかは必ず書ける。幼稚園児だって書ける。100 時間も 1000 時間も悩めば、必ず書けるだろう。5作くらい書けば、自分の才能が小説に向いているか向いていないか、多少はわかるのではないか。 多くの人が言う「考えた」というのは、「考えようとした」のことらしい。同様に「悩んだ」も「悩もうとした」である。否、たとえ考えようとするだけでも、100 時間くらい考えようとしていれば、なにかは実際に考えるだろうし、そして、考えれば、なにかは思いつくだろう。きっと具体的な案がいくつか出てくるはずだ。ほんの一瞬だけ考えようとしたくらいで「考えた」なんて言わないでほしい。 沢山の具体案を考えることは、無駄なようでけっして無駄ではない。採用されなかった案が、その人の将来の持ち駒になるからだ。

via: MORI LOG ACADEMY: 本当に考えたの?