2007年12月12日(水曜日)
歳を取ったからいうのではなく、若いときからそうなのだが、僕は、機械がうまく使えないと、必ず機械のせいにする。自分が悪いとは絶対に思わない。機械の使い方を間違えたときも、それは機械のデザインが間違っていると思う。パソコンのソフトでもそうだ。使いにくいものは、すべて僕のせいではない。このあたりが、エンジニアの基本的な姿勢だと自分では考えているし、エンジニアになる以前からもそう考えていた。そう考えていたからこそ、エンジニアになったのかもしれない。 地震で家が崩壊したら、それは地震が悪いのではない、家の設計が悪いのだ。酒を飲んで車を運転するのは人間が悪いが、しかし、誰にでも運転できてしまう車にも問題がある。ただ、技術的に発展途上のものを使わざるをえない、という状況はあるだろう。機械の過渡的な機能不足は人間がカバーするしかない。それはいつか解消されるべきものだ。 現在の携帯電話は、携帯性重視のために操作性が犠牲になっている。これは過渡的な問題だ。僕のガレージは、空間を有効に使うために、入口は全部ドアの高さが 150cm になっている。背の低い僕でも屈まないと頭を打つ。これは、過渡的とはいいにくく、妥協だろうか。犠牲になる性能というものは、どうしてもあるということか。この場合は、頭を打ったからといって、設計が悪い、とはいえないかな。ぶつぶつ……。