2007年12月08日(土曜日)


子供たちにドミノを並べさせたり、世界記録に挑戦させたりして、ものごとを達成したときの感激を味わわせようとしているのを見かける。けれども、本当の達成というのは、そういった「終わり」ではない。終わりがあるのは、それが「与えられたもの」だからである。 自分で問題を見つけて解決してくとき、自分で考えてものを作り上げていく場合には、けっして達成や終わりはないだろう。1つ解決したときには、新たな問題が目の前に現れるからだ。そして、よしこの次も乗り越えてやろうという決断をする、ここが一番エキサイティングな瞬間である。 「終わった!」と嬉しくなるのは、それが仕事であり、与えられたノルマである証拠だ。「できた!」と嬉しくなるのは、それを誰かに見せようと思っているせいだ。まだ誰か他者に支配されていることを思い知ろう。達成なんてその程度のものだ。

via: MORI LOG ACADEMY: 達成感は被支配の証


重要なことは、物体の存在も含めてあらゆる事象が、測定によって観察されている、ということだ。人間の躰にも、目や耳といった測定器があって、これによって感じている。声が聞こえるのは、空気が振動したからであって、声を出した物や人の存在とは無関係だ(その証拠に、音を記録し、スピーカで再生できる)。同様に、目や耳で感知されたものも、最後は脳で処理される信号だ。つまり、現実とはすべて信号によって観察されている。 コンピュータの登場によって信号の処理技術が飛躍的に発展した。現在「仮想」「バーチャル」と呼ばれている技術は、実は現実の再現であり、いずれは、現実とまったく同じものになる。

via: MORI LOG ACADEMY: 身近な測定器