2007年11月24日(土曜日)
そういえば、昨日見たケーブルTVでは、小惑星を観測して、地球に衝突しそうだったら、その軌道を逸らす、という技術の話題だった。その中で「恐竜は隕石による環境変化で絶滅したが、人類は、自然を変えられる力を持った初めての地球上生物である」と語っていた。そうなのだ。この「自然を変える」という表現が当たり前なのに、何故か新しい。日本のマスコミは「自然を守ろう」の一点張りだ。生き残るためには、少なくとも科学の力で自然を変えていく以外にないことをしっかり理解すべきである。それにしても、望遠鏡で宇宙を眺めている人たちが人間社会を救う可能性があるなんて、誰が想像しただろう。 機関車製作部の最新レポートにも書いたことだが、先日モデラが集まったとき、「本ほど安いものはない」という言葉を平岡氏が口にされた。そこにある情報が自分にとって価値がある場合、本当にこの言葉が身に染みる。「ああ、ここに書いてあったのか」と何度思っただろう。あるいは、「そうか、こんなに以前にもう気づいていた人がいるのだ」という感動もあった。まさに「僕のためにこれを書いてくれたのだ」と感激したことだって幾度もある。最初にそれを見つけた人は、もの凄い時間と労力を費やし、また膨大な費用をかけたかもしれないものなのに、その一番大切な結果だけを、わずか数千円で買える、数時間で手に入れられる、という事実は本当に信じられないくらい素晴らしいことだ。知識を共有することが、人間の賢さの土台であるし、また、平和の証でもある。
これもどこかに書いたことだけれど、一方的に歪められた歴史を教えられて、戦争に駆り立てられる人は多いけれど、数学や物理学を学んで戦争をしたくなる人間はいないだろう。本当の知識とは、そういうものだと思う。
もう通じなくなりつつあるが、「そろばん」と読む。ほとんど見かけなくなった。串刺しの玉が並んでいて、それをスライドさせて計算を行う。これについて少し考えてみよう。 1 + 2 = 3 の計算を頭の中ですると一瞬だ。これを算盤ですると、まず 1 という数字を認識し、その同じ数の玉を動かす。動かした 1 のことは忘れて、次は足す数である 2 を認識し、その同じ数だけの玉を動かす。その状態でまた 2 のことは忘れる。そして、盤上にある玉の位置を見る。3 つの玉が移動していることを認識し、そして、答が 3 であることを知るわけである。 この場合、計算はどこで行われているだろう? 算盤に考える力がないことは自明である。人間が玉を移動させて、勝手にそれを計算行為だと決めつけているだけだ。算盤は、人間が覚えるべき数を記録しているにすぎない(一種の記号である)。1 とか 2 を記憶するかわりに玉を動かしたのである。 しかし、足し算をするという意思は人間のもので、それは、まだ移動していない玉を選んで、同じ方向へ動かしたことに現れている。足し算するという計算の動作は、その判断によって起動している。引き算をするときは、既に動いている玉を選び、それを元に戻す方向へ移動する。すなわち、このような認識が計算行為の本質である。具体的には、数をかぞえる行為と、「どの玉が移動した玉で、どの玉がまだ移動してない玉か」を認識することだといえる。 こうして計算が無事に行われる。これはコンピュータだって変わりはない。単に、人間の認識と設定のとおりに、玉が電気で動いているだけである。そんなことをいったら、人間の頭脳だって同じかもしれないが、少なくとも人間の頭脳は、自分で考えないで算盤やコンピュータを使った方が早くて確実だ、と発想した点がコンピュータや算盤より優れている。 人間から発想を取れば、コンピュータや算盤になる。考えるのをやめれば、考えられなくなる。なにごとも、「自分にはできない」と諦めたとき、本当にできなくなる。