2007年11月08日(木曜日)
羽海野さんとの対談のときに出た話だが、創作というのは、人に好かれるためにするものではない。アマチュアのうちは、この目的が多分にあるけれど、プロになったら、むしろ逆だ。たとえば、お笑いタレントは、人から好かれたいという動機からその道に入るかもしれないが、プロになれば、そんな次元ではなくなる。また、あれは「私はこんなに馬鹿です」と認識してもらいたいからやっているのでもない。人を笑わせることで、それが自分の仕事になっているのだ。「馬鹿だな」「変な奴だな」と思われたら困る、といった人ではとうていプロとしてやっていけない。 これは、どんな分野でも同じだ。プロになったら、ユーザに好かれたいという動機は仕事の障害にさえなると僕は思う。好かれるためにやっているのではない、ということをよく認識すべきだ。ただ、ユーザ側がどう受け止めるかはまったくの自由。 ファンに好かれたいと思っているキャラを装う(演出する)手は常套であるけれど、僕がいっているのは、そういった見かけのことではない。本質的な部分において、どうあるべきかという話。 「人気商売」という言葉があるが、多かれ少なかれ商売はすべて人気商売だ。ユーザの大多数から嫌われては商売にならない。だったら、好かれることは大事なのではないか、と思われるかもしれない。そう、好かれることは大事である。しかし、それが目的ではない。目指すものではない。 そういえば、政治家も同じだ。政治家は人気商売であるが、有権者に好かれるために政治家になるのではない。その職を退くとき、「最後まで好きになれなかったけれど、あいつのやったことは正しかったな」と言われるのが政治家の目指すものだ。
電子技術がこれを成し遂げた。僕は子供の頃からこの発展を見てきて、本当に素晴らしいと感じる。人と人がつながり、いろいろなところにあった境界が取り除かれていく。言葉が違い、文化が違っていても、信号がつながれば、あとは端末のインタフェイスの問題となる。こういった方向で世界が一つになっていく道があるのだな、と最近よく想像する。