2007年10月01日(月曜日)


それから、僕が、よしもとばななが天才だと思う理由は、「やろうと思ってできること」ではないものが、彼女の作品に発見できるからである。必死になって小説に人生をかけよう、これで名を成そう、と意気込んでいる作家は、作品に気持ちが入りすぎて、そこが技巧的になりすぎて、つまり、そういった悩みに悩んだ苦労の痕が現れる。そこが良いのだ、その努力こそ美しいのだ、と評価する人はいるだろうし、それを否定するつもりはない。ただ僕は、そういった「考えて産み出されたもの」に魅力を感じない。それは、「やろうと思えばできること」だからだ。自分でもできることだし、誰にでも真似ができるだろう。 個人の優れた才能が産み出すものに、僕は触れたい。泣かせよう、笑わせよう、驚かせよう、感動させよう、という意図ではなく、自然に生まれてくる素直なシャープさを発見したい。僕が感じたいのは、苦労や誠意ではなく才能だ。僕はそのために芸術に触れる。小説も詩も映画も絵も音楽も写真も、それを産み出した個人の才能を観たいだけの動機で、僕はアプローチしている。

自分に、そういうものが書けるとは思っていない。少なくとも僕が評価するものよりも、僕自身の才能ははるかに小さい。僕は単に職人として、自分らしく作品を仕上げることしかできないので、ただ手を抜くことなく、はてしない才能に憧れて、仕事を片づけているだけだ。たとえるなら、銀河の運行を想いながら、草取りをするように。

via: MORI LOG ACADEMY: 草取りをするように