2007年06月16日(土曜日)


目に見えるものは形である。しかし、形に本質があるものばかりではない。むしろ、具体的な形に惑わされ、本質を見失うことの方が多い。 たとえば、ある人が海外で生活をしている。とても有意義な生活に見える。その人が書いたものを読んで感動した人が、自分もそんな体験がしたい、と同じ国へ行く。同じ国ではなくても、海外へ行く。海外へ行かないまでも、同じような部屋に住もうとする。それが無理なら、同じ家具が欲しくなる。自分にできることは、そういった具体的なものだから、必然的にそうなりやすい。しかし、そもそもどこに本質があったのか。それは、その人物の感性だ。その感性を持っていれば、どこにいても有意義な生活をしただろう。形に囚われて、形を真似ても、本質を得ることはできない。真似ているうちに、それに気づくことがあれば、まだ儲けものだが。 身近なところで小説の例を考えて書いてみよう。ある小説を読んで感動した。この感動を他人に伝えたい。そこで、こんな話だったんだよ、と人に伝える。それを聞いた人は、まずその聞いた話で小説をイメージする。でも、よくわからない。むしろ、話を聞いたかぎりではつまらなくさえ感じられる。なかには、実際に同じ小説を読む人もいる。しかし、やっぱりわからない。どこに本質があったのか。それは小説を読んだ人間の感性だ。その感性があるときある境遇で読んで感じたものが本質である。それは、誰にも二度と経験ができない。同一人物でももう経験できないものである。この感動を他人に伝えよう、というのは、ほとんど「刻舟求剣」に終わる(6/1 の【国語】参照)。

あるもので経験豊かになることは、別の言葉でいうと「年寄り」である。年齢ではない。たとえば、本を沢山読んだ人は、「本の年寄り」だ。模型を沢山作れば、「模型の年寄り」になる。 年寄りになると、自分の経験を語りたくなる。若者にアドバイスをして、苦労や失敗を回避するように促す。しかし、その苦労や失敗にこそ、自分の経験の本質があったのではないだろうか。この原理でいくと、素直に年寄りのアドバイスに従っていると、本質を得る機会からはむしろ遠ざかることになる。

何が言いたいのか。本質とは、言葉にはできないものである(残念)。ただ少なくとも、他人から伝わってくるものではない。だから、本質を掴みたかったら、外ばかりを探していてはいけない。自分で感じ、考え、悩んで、自分の頭の中から生まれるものを逃さないことである。

via: MORI LOG ACADEMY: 本質と年寄り