2007年05月14日(月曜日)
別の話題。ときどき、読み手の読解力を把握したい(あるいは期待したい)ときがあって、少しわかりにくい言い回しをしてみる。すると、案の定、誤解した人からメールが幾つか来る。そうか、やはり複雑な表現は書けないな、と思うこともあれば、まあ、この程度の伝達率が日常的なものか、とも思う。わかる人には、この複雑さが微笑ましく感じられるので、その人たちは楽しめるだろう。
たとえば、5/8 の最後に書いた一文。
「もう森博嗣なんか金輪際読むものか!」と本を山積みにして燃やされたとしたら、そちらの方が、ブックオフや図書館よりは、多少良い状態かな、とは思うけれど……。
この文章から「図書館で借りたり、古書店で本を買ったりするくらいなら、本を燃やしてほしい」という意味に取る人がいた(誤解した人からのメールは1通もなく、伝聞のメールが数通来ただけだが)。このMLAの文章は、僕以外の人間が3日間でチェックをしていて、「ここは誤解を招きそうだが、いかがか?」との指摘もときどき受ける。でも、その誤解が面白いのだから、やめられない(笑)。今回も、思わず笑ってしまった。いや、いるかもね、とは予想していたけれど、本当にいるのだ。世の中の人間には幅があって愉快だ。この幅こそが人類の財産といえるかもしれない。
僕は、小説以外のものならば、図書館で借りることもあるし、古書店で入手することもある。また、尊敬する人の本などは捨てない。既読の小説を再び読みたくなった場合は買い直す。本を燃やしたことはない。ゴミに出すだけである。
世の中にはいろいろな人がいる。どうしても肌が合わない人というのは、誰にでもいるものだ。森博嗣が大嫌いで、僕の本を燃やしたい人も、もちろんいることだろう。そういう人とは僕もあまり関わりたくないから、「その人が僕の本を燃やして関係を絶ってくれる」ことは嬉しいことだ。一方、図書館や古書店で小説の新刊が読まれることは、これからの新人小説家を育てるには多少の障害になるので、これは非常に喜ばしいこと、とは僕はいえない。両者を比較すれば、当然、前者の方が良い状況である。難しかったかな?
どちらにしても、誤読する人というのは、どう書いても誤読する。これは本人が最初から誤解したいと望んで読むからだ。だから、その人が何を欲しているのかが、これでわかる。この場合、そのまま誤解してもらって、悪く悪く受け止めてもらって、どんどん離れていってもらうのが望ましい。これも悪い状況でもない(むしろ良い)。不愉快なことでもない。過去 10 年間、この手法でどんどん良い環境に至っている。
嫌いな人に嫌いだと言われるのはプラスだ。嫌いな人から好きだと言われるよりグッドだと思う。これについては、伏線として、4/24 の【算数】に書いておいた。