2007年04月21日(土曜日)
昨日も書いたように、愚痴を書いたり、他人に数々の働きかけをするときには、僕はもう怒っていない。しかたがない、もう諦めよう、と決断をしたあとに、処理をするし、影響を周囲に与える。怒っているときは、愚痴なんか書かず、相手に直接警告(あるいは改善請求)をするだけだ。したがって、ここ数日機嫌が悪いなんてことは全然ない。工作も楽しいし、パソコンもキットもこれから楽しめる。体調も良い。
悲惨な事件が起こると、マスコミは「とにかく、動機をしっかりと調べてもらいたい」と語る。動機を知りたいのは、それを報道すれば視聴率が取れるからだろうか? 容疑者の過去について、エネルギィを使って調べる。その生い立ちや、生活について調べる。そういうことをして、どのように今後の事件防止に活かすつもりだろう? それよりも、街へ出て、危険な場所を探す方が大事ではないか。僕は、郵便局や銀行の駐車場で、スバル氏を待っているとき、いつも感じる。ここは危険だなあ、と。お年寄りが通帳を見ながら出てくるのだ。周辺には、誰もいない。ガードマンが1人立っていれば、その場所はもっと安全になるだろう。その費用は、容疑者や被害者に複数のマスコミが群がるための費用よりもはるかに安いだろう。もちろん、ほんの一部の改善でしかない。しかし、まちがいなく改善である。 危ない場所というのは、探せば見つかる。そういった場所、すなわち次の犯罪の可能性へ目を向けるべきだ。そうすれば、何が必要なのか、という議論にもなる。過去を顧みて、「なにかできることはなかったのか」と考えることも大事だが、その目的が完全に見失われている報道がほとんどだ。 それから、もう1つ。もう何度も書いていることだが、アメリカの乱射事件で、犯人が作ったビデオを一切公開しないという手を、マスコミや政府は何故打てなかったのだろう? それが次の犯人に対する有効な策の1つであることは明らかだ。マスコミは何故そこまで犯人の言うとおりに動くのだろうか? 視聴率が取れるし、類似の犯罪が再度起こってくれたら、また視聴率が取れる、という判断だと言われてもしかたがない。