2007年04月19日(木曜日)


僕は、学生から、「森先生が怒ったところが一度見たい」と言われるほど、怒ったことがない。不具合な兆候があれば、事前に何度も警告をするし、こうした方が良い、早く手を打ちなさい、とアドバイスをする。それらは、そのとおり本人が手を打てば、解決に向かうことが多い。問題は、本人が手を打たない場合である。これはおそらく、そんなに危機感を抱いていない、つまり本人の見込みが甘いことに起因している。 そうしたときには、対処が遅れて、問題が大きくなる。この場合、僕は、「もう今さら怒ってもしかたがない」というモードになるので、その関係のものを自分から切り捨てる。こちらとしては、既にやるべきことはやった、と考えているからだ。怒ってみたところで、今さらしかたがない。 しかし、最近、出版社の人間とつき合うようになって、怒らないとわかってもらえない人たちが実に多いことに気づいた。修正案やアドバイスとして、指摘しているうちは、彼らには伝わらないみたいだ。たぶん、出版社の人たちは、そういうもの(ちょっとした不具合や苦情)に慣れきってしまっているのだろう。不具合が大きくなれば、そのときに頭を下げて謝れば良い、と軽く考えているようだ。 予想どおりに悪い事態になったら、僕としては、「切り捨て」に移る。すると、ここでようやく、向こうは、僕が「怒っている」と認識するようだ。僕としては、もう怒ってなどいない。謝ってもらっても、まったく意味がない。筋違いというか、手遅れである。 そういった事態が本当に多いので、多少はお互いに学習した方が良いかもしれない。 出版界に 10 年いて理解したことは、「馬鹿正直に言うことをきいて、約束を守っていても馬鹿を見る」ということだろうか。もっと、作家らしく、締切を破り、約束はドタキャンし、書くよと言って書かない、というふうにしなければ、こちらの話はまともに聞いてもらえない、ということ。極端にいえば、締切を破る方が優遇される世界だ。だから、みんなこんなに締切を破っているのだな、それを交渉手段にしているんだな、と理解した。まさしく「北朝鮮方式」ではないか。しかし、ここにいるかぎりは見習う価値はあるかもしれない。

via: MORI LOG ACADEMY: 怒らないとわからない