2007年03月16日(金曜日)
この頃の若い人と話をしていると、平均してみんな理屈がなくなっている感じがする。特に、技術系の人間ならば、もう少し理屈を捏ねてほしい、と思うことが多い。「理屈を捏ねるな」という年寄りくさい叱り方があるので、理屈を捏ねることに悪いイメージを持っているのかもしれない。感覚的に捉えるものと、理屈で捉えるべきものがあるけれど、後者については、屁理屈でも良いから、捏ねないよりは自分なりの理論を持っている方が良い、と僕は思う。つまり、理屈を持とうとする姿勢が基本なのだ。昨日、経験をしてインプットされたものを自分なりに処理することが大切だ、と書いたが、つまりこれが理屈を捏ねることと等しい。 話は少し違うが、政治、たとえば外交一つとっても、日本人は、どうも理屈を捏ねなさすぎるように僕には思える。僕の知っている外国人はもっと理屈屋ばかりだった。コミュニケーションによって相手を説得するツールは理論であり理屈だ、と彼等は考えている。日本人は、情だとか、気持ちだとか、これまでの経緯だとか、あるいは誠意といったわけのわからない単語で片づけようとする。充分な理屈を持ったうえで、こういったものが付加される方が見栄えが良いだろう。 経験がない分、若者は理屈を捏ねよう。それが若者の特権ではないか。さて、しかし、素直に感じるだけで良いものと、理屈を捏ねた方が良いものがたしかにある。どこで両者を区別したら良いのか、その理屈はまたいつか……。