2007年03月11日(日曜日)


日本語は、目で捉える文章である。日本語を読んでいる人は、読み方に拘らないことが可能だ。漢字が読めなくてもだいたい意味が通じてしまう。だから、言葉が持っているリズムや、音の美しさに触れる機会が少なくなる。同様に、文章のリズム、文章が持っている美しさに触れずに、物語だけを追う傾向が、ほかの国の文学よりも強いかもしれない。もちろん、全員がそうではない。数的には一部の人たちだろう。しかし、その一部の人たちが1日に2冊も3冊も小説を買い、たちまち読み、そして愛読者カードを送り、ブログにも小説の書評を書く。出版社で本を作っている人たちも同じ人種だ。普通の感覚をすっかり忘れているように、僕には見える。 たとえば、日本では詩人があまりメジャにならない。小説家は名前を挙げられても、詩人の名を(特に、生きている詩人や、若い詩人になると)挙げられる人はごく少ない。中国語でも英語でもドイツ語でも、詩は非常に地位が高く、また大衆に愛されているが、これは、日本語が持っている上記の特徴から来るものだろうか。

via: MORI LOG ACADEMY: 詩的考察