2007年02月21日(水曜日)


小説においても、1冊の本を数時間で読む人は、物語を「知った」だけである、と僕は思う。そういう読み方ももちろんあるだろう。僕はそういう読み方をしない、というだけだ。ただし例外的に、短時間で読んでも現象を理解できる天才的な読み手が存在することも僕は知っている。 普通の小説ならば、最低でも数十時間を要し、数日かけて読む。そこに起こっている現象を理解するためだ。そして、そういうふうにして読んでいると、まったく現象が描かれていない小説が世には存在することに気づく。たぶん、「知る」ことだけを目的に書かれたものだろう。そういう小説は、僕には読む価値がない。 速読をすることは、何が書かれているのか、ということを「知る」行為である。沢山の文章に目を通さなければならない職業には必要な能力だろう。しかし、早回しで音楽を聴いたり映画を見たり、写真集をぱらぱら漫画のように捲って、「はい、わかりました」というのと同様に、僕は価値を感じない。 とにかく、何が書いてあるのかをまず知りたい、という気持ちがあるのだろう。それを知ったうえで、じっくりと再読すれば良い、という話も聞く。そうすれば、自分に合っている内容かどうかを早く見極められる。言い換えれば、自分に対してネタバレをしたいわけだ。現に、解説をさきに読む人、内容を知ってから読む人、そちらの方が世の中には多いのである。そういう読み方を否定しているのでは全然ない。僕の小説を早く読むなという意味でもない。人のことは気にならない。僕にはできないし、したくないだけである。

via: MORI LOG ACADEMY: 速読について