2006年12月29日(金曜日)


手作業で行う場合には、どうしてもミスは発生する。まずこれを認める必要がある。完璧に作業をすることは不可能だ。だから、チェックによってミスを見つけ、リカバーしなければならない。このとき、作業をした本人がそのチェックをするのは安全ではない。何故なら、ミスのほとんどは「思い込み」によって生じるからだ。思い込みを持った人間がチェックすると、その思い込みのまま確認するだけで、ミスを見逃すことが多い。したがって、その「思い込み」を忘れる必要がある。それが、頭を冷やすという意味だ。冷静で客観的になるには、ひとまず自分が作ったことを忘れ、別の人格になることが是非必要である。 それ以外に、作っている途中でいえることを1つだけ。効率を上げるために「あとでまとめてやろう」という作業がミスを生む確率が高い。多少効率が下がっても、ひとつひとつの手順を確実に進める方がミスが少ない、と経験的に認識している。 ただし、ここで述べたミスとは、手が滑ったとか、ものを落とした、というようなその場ですぐわかるミスではない。勘違いによるミスのことである。 さあ、こんなことを書いているが、早くチェックをして、早く音を出してみたいのは、もちろん人情。一か八かスイッチを入れて、上手く作動したら「ラッキィ!」と叫ぶ、というのも趣味のあり方としては否定できないが、こういう人は、仕事では信用されないことも確かだ。気をつけよう。 世に出る仕事とは、それが素晴らしいものであるほど、幸運によって成り立っている割合が低い、と僕は思う。

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日本では「保証人」の署名が、書類で安易に求められる場合が多い。不思議な習慣だ。たとえば、アパートを借りる契約をするにも、保証人の印が必要になる。本人が行方不明になったりしたときの連絡先とか、身元保証的なことも考えているのだと思う。しかし、それならば、もっと違う名称にすべきだ。支払いのバックアップ的な責任が求められる本当の保証人であれば、文章をもっと明示するなどして保証人に対して説明すべきである。書類にただ「保証人」の欄があって、住所と氏名だけを書くようになっているものがある。恐くてサインができない。 英語では cosign という言葉が(三角関数ではなくて)、連帯署名をすることを意味している。つまり、これをするのが外国の保証人である。本人と同レベルで、契約にサインをするのだから、責任は本人と同等だ。これが「連帯保証人」で、日本の場合には充分に認識が浸透していないように思える。「身元保証人」などと混同されている感もある。 借金などの場合、保証人には、本人が破産したり行方不明になって払えなくなった場合に、支払い請求がある。連帯保証人の場合は、本人に払う能力があっても、支払い義務が生じる。 身元のわからない人を排除しよう、という防衛手段であることは理解できるが、それにしては、たとえば、既に入学を許可した生徒にこの書類を学校が求めたり、ときどき意味がわからないケースに出会う(たとえば、学費が前払いできなくなったら即退学という契約だけで済む問題である)。「まあ、減るものでもないから、印鑑くらいもらってこい」というかなり安易な姿勢で続いている形骸的伝統が散見されるように思われる。

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