2006年12月15日(金曜日)
ところで、ポルシェは空冷エンジンをリアに乗せているから、フロントのボンネットが低くなり、あの形になった。フォルクスワーゲンのビートルも同じだ。このように、デザインには「必然」がある。そして、その必然がすなわち「理由」であり「拘束」でもある。けれど、長い年月の間に、その機能が受け入れられると、そのデザインが優位になり、理由や拘束から離れ、独立して認識されるようになる。 ポルシェは 10 年ほどまえに水冷エンジンになった。しかし、エンジン配置を変えなかった。既に、あのフォルムである理由を失っているが、形を残すためだ。これが伝統である。伝統とは、このように形骸化されたものだといえる。 フォルクスワーゲンのビートルなんか、フロントにエンジンを載せてしまった。それでも、無理にあの形に拘り、結果として不格好な「無理」を背負った。ミニも形に拘ったが、ミニのデザインで最重要であった「小ささ」はもはや跡形もない。これらも、形骸化された伝統であり、後ろ向きのノスタルジィといえるだろう。それが、悪いといっているのではない。僕は嫌いだ、というだけのこと。この価値観は、たぶん僕がエンジニアだからだ。
最終日の国語は、御神輿(おみこし)の話です。 その土地のお祭りの時、殆どの地域では御神輿を担ぎます。そして、ワッショイワッショイと、皆で村や町を練り歩くわけなのですが ──。ではここで『広辞苑』を開いて「担ぐ」という言葉を調べてみましょう。するとこうあります。
1)肩にかけて担う。 2)まつり上げる。名義上押し立てる。 3)身に引き受ける。 4)欺く。だます。 5)縁起を気にする。
ここで問題になるのは、2)と、4)です。ちょっと怪しげですね。また、江戸時代の隠語で「担ぐ」といえば「暴行する」「さらう」というような意味でした。とても不穏ですね。 そういえばぼくたちは、担がれた御神輿に向かって塩や水をまきます。ところが「塩をまく」「水をまく」というのは、あくまでも「穢(けが)れを祓う」という行為です。とすると、ちょっとおかしくありませんか。その御神輿には、自分たちの先祖や土地の神様が乗っているのです。それが「穢れている」というのでしょうか? とても不思議ですね。ぼくも、ある人からこれを尋ねられたのですが、その時は正直言って愕然としてしまいました。 では、一体なぜこんなことになってしまっているのでしょうか……というのは再び「社会」の分野に戻ってしまいます。しかしこれに関してもみなさん、ご自分でじっくりと考えてみて下さい。またしても、とても面白い歴史が見えてくることを請け合います。