2006年10月10日(火曜日)


テレビがデジタル放送になるそうだ。スバル氏がそう話していた。「え、まだなってなかったの?」と思った。それだけ。 与えられるものを受けていた時代から、欲しいものを自分で取りにいく時代になった。これが豊かさである。買いたいものをお店へ行って探す、というのが既にそうだ。品物が沢山あって、選べるようにお店という場所がある。選べない時代には、店なんかなかった。ただ与えられたもの、手に入るものを食べて、着て、生きていた時代が長かったのだ。仕事も与えられて、それをする以外になかった。 つまりは、こうするしかない、という局面が多いほど、貧しいといえる。自分は、こういう人間だから、こうしなければならない。これしか道はない、と思い込むことは、貧しさを引っ張り込んでいるようなものだと思う。

しかし、ある意味では、それが楽でもある。選択肢がなければ、考えなくても良く、ただ毎日ノルマをこなして生きていける。そういった貧しい時代が長く続き、また大勢がそれに甘んじていられた、ということが、人間という生きものの特性をよく示していると思う。そんな生き方ができる生物である。否、そもそも生物のほとんどは、その特性を持っている。だから、生き延びられたのかもしれない。 ただ、いつの時代にも、少数の革命家がいた。貧しさよりは死を、という選択をしてでも立ち上がろう、勝ち取ろうとした人間がいたのだ。そんな革命家が、現在の豊かさを築いたのか、というと、そうでもない。地道に生産し、工夫し、少しでも楽になろう、みんなで楽をしよう、という多数の個人の発想や努力が蓄積した結果だ。革命家は単に、その場の分配の不公平を正そうとしたにすぎない。公平になることが、すなわち豊かさでもないし、平和でもない。それは、社会主義の失敗で明らかになったところではないか。 そういったことを、落ち葉を拾っているときなどにふと考えるのだが、こんなことがのんびりと考えられること自体が、実に豊かで平和である。「死にもの狂いでやれ!」という言葉を、僕が小さい頃にはよく周りの大人たちが口にした。どうして、死にもの狂いにならなければならないのだろう、と不思議に感じたものだ。その予感は正しかったと今は思える。少なくとも、核実験をするような選択は、死にもの狂いであって、そこからは豊かさも平和も、けっして生まれないだろう。

via: MORI LOG ACADEMY: 選択の貧しさ