2006年10月09日(月曜日)
それにしても(いきなりだが)、言葉というのは伝わらないものだ。言葉が一番伝わるものだけれど、それでも、なかなか思ったようにはいかない。会って話をしても、伝わりにくいのだから、まして文章で一方的に書いたことなど、どれくらい意味が汲み取ってもらえるだろうか。書くことを仕事にして、つくづく感じるのはそれである。 論文を書いているときは、「まあ、ちょっと読むか見るかする人が世界に 100 人、理解しようとする人が 10 人くらい、そのうち1人くらいは自分で研究をして、レベルが上がってくれば、意味が伝わるかもしれない」と考えていた。というか、今現在は無理でも、何十年かしたら、誰かわかってくれるだろう、といった期待に近い。 小説は、どうだろう、平均的には 20%くらい伝われば、もうよしとしなければならない。物語の筋でさえ誤解されるし、読み手が勝手に想像してしまうので、これは諦めるしかない。まして、こちらが狙った方向性など、まったく伝わらないことの方が多数。これも、そんなものか、と期待していない。誤解しないように。読者が馬鹿だという意味ではない。そもそも、誰もそんなものを、はなから求めていないだけのことだろう。 日記やエッセィも、30%くらいならば伝わるだろうか、というのがだいたいの感じ。書き方が悪い、ということかもしれないけれど、これ以上懇切丁寧かつ厳密に書いたら、誰も読んでくれなくなる。 文章の一部だけを抜き出して、森博嗣がこんなことを言っていた、と書かれることもあるが、しかし、コミュニケーションとはそんなものだ、と初めから諦めてもいる。9 人が誤解しても 1 人が理解すれば、充分に元が取れるかもしれない。意見を主張するためにエッセィを書いているわけではないので、目的達成どうこうという問題でもない。 そもそも、人に認めてもらう、あるいは、人から褒めてもらうためにやっているのではない。また、たとえ認めてもらい、褒めてもらっても、さほど嬉しいわけではない。これは、自分でなにかを作ればわかる。出来上がったものをいくら他人が褒めてくれても、作っている最中や出来上がって一人ほっと溜息をつくときの嬉しさに比べたら、ほとんどゼロに近い。これがわかる人が作り続けるのだ。 なんか、こうやって書くと、不満があるみたいに思えるかもしれないが、それもまた、大きな誤解である。
絵が上手いという場合、それは、頭に思い描いたものが優れていて、しかもそれをキャンバスに写すだけの技巧を持っていた、という2つの要素からなっている。 たとえば、もの凄くカラーコーディネートのセンスが良くても、その色を上手く塗れない人は、仕事としてやっていけない。それがこれまでの世の中だった。 基本的な技術は、大半は経験によって築かれる知識体系であって、それを知っている者が、その職に就いている。しかし、センスがあるか、というと、どうもそうではない、と思うことが非常に多い。 たとえば、デザイナと呼ばれる(あるいは名乗っている)人たちは、単に素材を沢山知っているとか、できることを把握しているとか、コストの計算ができるとか、そういった能力を持った人たちで、美しさに対する感覚が優れているわけではない。なかには稀に、この美のセンスを持っている人がいて、そういう人は例外なく、一流であり、名前が知れ渡っている。逆にいえば、それ以外の 99.9%の人は、センスがない、ともいえる。 ところが、その職についていない(だから当然、経験も知識もない)けれど、センスを持っている人間がいる。そういう人から見ると、「これ、変じゃない?」というものがあるわけだが、しかし、「素人に何がわかる」と一蹴されるわけだ。デザインの世界もまだまだ封建的である。 デジカメが登場して、カメラやレンズの設定や現像の技術がなくても、良い写真が撮れるようになった。これからはセンスだけの勝負になる。それと同じように、あらゆる分野のデザインは、ノウハウがコンピュータ任せになり、どんどんセンスの比率が増していくだろう。本来あるべき方向へ近づいているだけの話であるが。