2006年09月06日(水曜日)


このまえ、「世間ずれ」について書いたら、わりと反響があってメールが沢山来た。予想していたものだが、「子供を持つと世間ずれを余儀なくされる社会」への不満を語ったものがいくつかあった。1/16 の【社会】に書きたかったことが、実はこれである。抽象的すぎてわからなかったかもしれない。 夫婦2人だけであれば、少年少女のままでいられる。子供ができても、別に仲間が増えるだけのことで同じだ。しかし、子供が成長し、学校へ通い始めると、いろいろな「つき合い」をしなければならなくなる。時間も取られるし、それ以上に、面白くもないのに笑ったり、つまらない話題に相槌を打ったり、馬鹿馬鹿しいと思うものを褒め称えたり、そして、プライベートなことをあれこれ詮索され、黙っていると勘繰られ、聞きたくもない他人の個人情報に耳を傾ける振りをしなければならない。もちろん、昔よりは減っているけれど、今でも、そういった村社会的生活を強いられるのだ。 マスコミはことあるごとに、「近所づきあい」「地域のコミュニティ」「学校と保護者の対話」などを取り上げ、それさえあれば非行も犯罪を防げる、これこそ現代人が忘れかけている人間の心だ、と謳っている。おそらく、田舎に住む相当な年輩者向けに、そういった言葉を選んでいるのだろう。だが、そんなことを言い続けていたら、確実に若者の心は離れていくにちがいない。 世間ずれか少年少女か。どちらが良いか悪いか、といった問題ではない。どちらもある。いずれも、なくてはならない。いろいろなライフスタイルがあるのが当然であり、できるだけ各自が自由に生きられるようにする、というのが理想の社会だ。

なにかというと、「昔は良かった」「田舎は暖かい」という短絡的なコメントを吐くのは、危険とはいわないまでも、それこそ「ずる賢い責任逃れ」的な「世間ずれ」にほかならない。 みんなで仲良くわいわいとやっていきたい人と、できれば静かに1人で行動したい人がいる。酒飲みはみんなと一緒に飲みたい。飲まない人は1人でゆっくり食事がしたい。お互いにそういう人種なのだから、お互いに認め合おう。すると必然的に、前者の人種だけでグループを作ることになる。ただ、それぞれの人種が1人ずつで2人だけしかいないときにはちょっと困ったことになる。そういうときは、喧嘩別れしたら、後者の勝ちになるので、基本的に後者が優位である。だから、そんなに心配する必要はない。

via: MORI LOG ACADEMY: つき合いの悪い人にも人権を