2006年08月26日(土曜日)


さて、自己評価をすると、僕は人よりは理屈っぽい(平均的な人よりは、という意味である)。どうして、こんなに理屈を捏ねるのか、と考えてみた。 つまり、理屈を捏ねることで、自分を説得しているのだろう。そうしないと、なかなかやる気にならない、ということもある。やる気にならないと、動かないわけで、なにものも発生しないから、あとで困ったことになる、と学習した結果だろう。 働き者とか、勤勉な人がいる。スバル氏もある意味でそうだ。彼女の場合、特に理屈などなく、人の世話をするし、食事の支度や掃除をしている。けっして、働くことが好きだというわけではないはず。ただ、生まれながらにして、勤勉である(というよりも、優しい、のかな)。 工作関係の人でも、とにかくどんどんものを作る人がいて、本当に頭が下がる。きっと理屈などない。根っから勤勉で、作業に没頭できるタイプなのだと想像する(この場合も、工作に対して優しいのだと思われる)。 僕は、子供の頃からとにかく、怠け者だった(つまり優しくない)。なにもやりたくないし、すぐに飽きてしまう。少しやると、もう嫌になる。だから、なんとか教訓なり手法なり方針なりをあみ出して、これこれこうするのが本道だ、みたいな理屈を考えたのだろう。 たとえば、スポーツ選手でも、天才的な人には理屈がない。すべて勘だ。フィーリングに従っていれば、良い成績が出せる。その一歩手前の才能しかない者は、自分の欠点を分析し、修正し、試行錯誤して、あと一歩を補わなくてはならない。傍目には、両者の区別はつかないだろう。両方とも天才プレイヤに見える。区別がつくのは、引退後に監督やコーチになったときだ。後者の理屈がある人間の方が、指導には向いているはず。 このスポーツ選手の例はあまり適切ではなかった。僕が理屈っぽいことで、他人の指導に向いている、なんて意味に勘違いされそうだ。絶対そんなことはない。ただ、世の中には、微々たる言葉の力で、最後の一歩を踏み出せる人もいるかもしれない。たまたま偶然にそういう人には多少価値がある言葉になる、というだけだ。しかし、所詮、言葉は言葉でしかない。 このように分析すること自体が、非常に理屈っぽい。しかしながら、僕よりもっともっと理屈っぽい人が沢山いることを僕は知っている。だから、理屈が多い日も安心だ。

via: MORI LOG ACADEMY: 理屈っぽい理由