2006年08月19日(土曜日)


この頃、以前よりは沢山の人とコミュニケーションをとるようになった。ひとえにネットのおかげである。そういった多点観測から、自分が人とは少し違っている点がときどき発見できる。 まず、いろいろな意味で、僕は自分が社会のどの位置にあるのか、ということをほとんど評価しない。把握はするが評価はしない、という意味だ。自分はメジャでもマイナでもない。自分は天才でもないし馬鹿でもない。ようするに、自分が原点であって、自分がどう変化しても、自分は自分なのである。評価する必要がないわけだ。たとえば、もし自分が劇的にメジャになれば、周囲が相対的にマイナになったように観察されるだけである。自分が歳をとれば、周囲に若者が増えるのと同じことだ。 自分は良くもない、悪くもない。しかし、周囲との関係において、いろいろな評価が成り立つことは理解できる。人から見たとき自分はどうであるか、という想像もおぼろげにできる。 わかりやすいから、お金の話をしよう。僕は、これまで、自分が貧乏だとも、お金持ちだとも、思ったことがない。お金がないから買えない、お金がないからできない、と思ったこともない。子供のときには、それがあった。しかし、自分でお金を稼ぐようになれば、そういった問題は綺麗に消えてしまった。何故なら、稼ぐことによって、お金の価値を知ったからである。 お金は、自分の時間と労力に依存した評価値だ。欲しいものが 100 万円ならば、どれだけの労力と時間を犠牲にすれば良いかがわかる。 1000 万円あったらあれができる、ということなども考えたことがない。考える意味がない。ただ、それがしたかったら、1000 万円が必要であり、その 1000 万円はどれくらいの労力と時間で得られるのか、と考えるだけである。それは、郵便ポストがどこにあって、手紙を投函するためには、そこまで歩かなければならない、というのと同じことだ。

お金は価値の単位で、結局は自分の能力および時間との対比で観測される。自分の思考や生き方とは縁遠いものだと感じるけれど、他人との関係を顕著に規定する作用はある。あくまでも自分には変化はない。お金がいくらあっても自分は同じだ。今すぐできるか、少し歩かなければならないか、の違いでしかない。変わるとすれば、他人との関係である。 たとえば、1000 万円支払うから仕事を引き受けてほしい、と依頼されたら、なるほど、その人は僕の仕事に対してそれだけの評価をしているのか、というふうに受け取る。今の僕にとっては 1000 万円を得ることはほとんど意味はないけれど、相手が 1000 万円支払うのは相当な覚悟であり犠牲かもしれない。そういうことがわかる。人の真剣さは金額でしかわからない、というわけではないが、わかりやすい指標であることは確かだ。 お金の話をすることを嫌がる人、「もうそんなに稼いだら金はいらないのでは?」と言いたがる人、そういう人は、もの凄くお金に執着しているのだろう、と想像する。執着することが悪いとはいわない。そもそも、お金は汚くもなければ綺麗でもない。長さや重さと同じ、単なる数字、単位である。

via: MORI LOG ACADEMY: 自己評価とお金