2006年07月20日(木曜日)


若いときには、集中して仕事ができた。48 時間くらいなら、寝ることも食べることも忘れて1つのことをしていられた。そういった集中力は、若者に特有のものだろう。それが、20 代になるともうかなり衰える。その後も回復することはない。人間という動物は、10 代後半で子孫を生み、その後 20 代前半で幼児を育て、それで役目は終わり、というデザインにメカニズム的にはだいたいなっている。だから、その後の人生はすべて余命であって、衰える一方、壊れていく一方で、騙し騙し過ごしていくしかない。 こうしたことを認識することが大事で、それをきちんと自覚すれば、対処ができるだろう。これは、気持ちの問題でどうこうなるものではなく、手法で解決するしかない、と僕は考えている。 多少話の方向は変わるけれど、人間の能力もまた、10 代がピークで、あとは下降する。性格もそうだ。その頃が一番優しいし、また素直だ。そんな若者から見ると、年寄りは、知恵もあり、人間もできた、穏やかな性格の完成された人格に見えるかもしれないが、歳をとることで、性格が良くなったり、能力が高くなることは、事実上まずない。あっても、それは見せかけのものだ。カバーをする手法、テクニックを身につけただけのことである。 たとえば、「不惑」という言葉が論語にある。「四十而不惑」と。しかし、ものごとに惑うのは、それだけ視点が速く、その結果多く、考えも素早く、したがって広く、しかも素直であり、先入観がない状態だからこそ迷うのだ。いうなれば、惑うことがすなわち自由である。惑わないのは、もう自分の程度を決めてしまい、諦めてしまい、人生をある程度見切ったからではないだろうか。そんな姿が、なんとなくどっしりとして落ち着いて見えるから、若者から見て、安定した形に映るだけのことだ。 知識や経験が豊かであることも、そんなに大したものではない。知識に関していえば、教育を受けたばかりの子供の方が質が高いとさえいえる。大人の知識などは、身の回りの手続きに関するどうでも良いような卑近なものばかりだ。経験なんて、その人間個人の視点・条件によるものであって、他人に役立つようなものは極めて少ない。 だからといって、大人や年寄りを馬鹿にしても良い、という話ではもちろんない。ただ、そんな立派な人間など滅多にいないのだ、ということ。だから、若者は安心して、自由に生きていけば良い、と思う。

via: MORI LOG ACADEMY: 仕事をしている場合


親父が建築の設計図を描くところを小さい頃から見ていたので、ものを作るまえに図面を引く、ということは知っていた。だから、小学校1年生か2年生になった頃には、設計図をきちんと描いたこともある。たしか、4年生のときには、もうラジコン飛行機の設計図を実物大で描いていた。もちろん、それを実現するだけの資金力がなかったけれど。 ところが、そうやって設計図を描いて、熟考してから作ってみても、工作の段階で不具合に必ずぶつかる。つまり、図面のとおりでは作れないことに気づくのだ。何が悪いのかといえば、それは、図面を描いた時点における想像力の欠如である。多くは、立体になった場合に生じる矛盾(2方向から来るネジがぶつかるとか)、あるいは、事実上加工ができない(指が入らなくなるとか)、といった問題だ。 しかし、最も多いのは、設計図どおりに作ることができても、期待どおりの機能をはたさない、という問題である。これも想像力の欠如といえるので、原因は同じである。重すぎて、あるいは摩擦が多すぎて、モータが回らないとか、強度が弱すぎてぐらぐらするとか、さらには、工作精度が出せないために、それが積もり積もって致命的な欠陥が生じる、ということもある。自分で描いた設計図をもとに、自分自身で工作をしているのに、こうなるのだ。他人が図面だけを見て作ったら、絶望的だろう。 世に存在する設計図のどれくらいが、手直しなしで実際にそのとおりのものが作れて、しかも期待どおり機能するだろうか。簡単な部品ならば大丈夫だろうが、ちょっと複雑なものになると、もうほとんどありえないくらい奇跡的だと思われる。それでも、設計図がないよりは数段まし、ということは確かなのだが。

via: MORI LOG ACADEMY: 実現不可能な設計図