2006年07月09日(日曜日)


先日、羽海野さんは、僕のガレージにある模型飛行機を見て、「プロペラが小さいですね」と言った。今までここへ来た人で、それを見抜いた人はいない。ラジコンの特にエンジンを搭載している飛行機は、エンジンが小型化し、高回転化するため、必然的にプロペラが小さくなるのである。実物のスケールどおりのプロペラを回せない。彼女の観察眼が非凡であることもあるが、やはり、「道理が見える」人がいるということ。 建築家ならば、がらんとした空間で、大勢の人間の動線が見えるだろう。流体力学を長年やっていると、飛行機のボディラインに沿って、空気の流れが見えるようになる。アニメーションを作る人ならば、葉っぱが舞ったり、ガラスが割れるときの動きが見えるだろう。人をよく観察する人は、人がどう反応するか、どう振る舞うかが「見える」ようになる。 人間は、目でものを見るのではない。頭でイメージするのである。これは「計算」に近い。目で見ているものに囚われていると、それが見えにくくなるだけの話だ。別に見えなくても生活には支障はない。むしろ、見える人の方が生活に支障がある。だから、しかたなくそれをアウトプットし、仕事にするのである。

via: MORI LOG ACADEMY: 見えること


日本語はわかりにくい、と留学生たちはこぼしている。「いっぱい」がわからない。少ないときと多いときがある。「ジュースをもう一杯下さい」と「もっといっぱい下さい」とだいぶ違う。「ご飯一杯(一膳)」と「ご飯いっぱい(沢山)」はどうやって区別するのですか、と尋ねられたりする。 「お茶碗一杯のご飯」が、「沢山」に思える人と、単に「器1杯」に思える人がいる、という理解を話す以外にない。 「目一杯」は「ぎりぎり」という意味だ。「いやあ、いっぱいいっぱいだよ」は、もう、溢れる寸前、能力の限界の意味で使われる。「力一杯」も持てる力の「すべて」という意味だ。つまり、器を満たす量を、日本人は「最高に多い」と見ていたのである。これは、英語の「a cup of」にはないニュアンスである。 「一」にこのようなニュアンスが込められるものとして、たとえば、「一家」や「一生」が同じだし、「一般」なども近い感じがする。 「一発当ててやる」というときも、この「一発」は、単なる平凡な「一回」という意味ではない。ちなみに、「一発千金」は間違いで、あれは「一髪千鈞」である。辞書を引くように。 算用数字の「1」と置き換えられるかどうか、で区別することは可能だ。「ファイト1発」では心許ないだろう。

via: MORI LOG ACADEMY: いっぱいやいっぱつ