2006年06月18日(日曜日)


いつもは、ガレージへは自分からは絶対に入らないが、今日は足許を歩き、一緒に来ようとする。「ちょっと、ここで待っていなさい」と命じても来ようとするので、両手に機関車を持っていたこともあって、足でそっとパスカルをドアの方へ押したのであるが、これがまたショックだったようで、うずくまってしまい、動かなくなった。 しかたなく、機関車をその場に下ろして、パスカルを抱き上げると、その場でおしっこをしている。それくらいびびっていたのだ。特に、叩いたり、脅したり、大声で怒ったりはしていない。最初は、「あ!」くらいは言ったかもしれない。人間の顔色を見て、自分がやったことの重大さをここまで理解しているのである。

子供というのは、親の顔色を窺うものだ。親が笑っていれば、安心するし、怒っていれば、神妙になる。「親の顔色を窺うような子だった」という表現で、親の育て方を非難する場合があるようだが、育て方などに関係なく、子供は親の顔色を本能的に窺う。良い悪いではなく、当たり前であり、自然のことだ。 子供のそうした仕草を見て、「ああ、自分は今、そんなに血相を変えていたのか」と大人は気づく。そういう大人であれば、大丈夫だろう。それが、「子は鏡」という意味である。 子育てについて、ああだこうだと言うつもりは毛頭ない。どんな育て方が良いのか悪いのか、まったく関心はない。唯一思うのは、育て方なんか、ほとんど人格形成には関係がない、くらいのことか。人間というものは、そんなふうにして作られるものとは、僕は考えていない。子供は自分で育つ。自分で考え、なりたいようになれば良い。ようするに、子供をどう育てるのか、ということに囚われた教育論が多すぎる、と感じている。 そうではなく、子育てによって、親がどれだけ学べるか、親がどれだけ成長するのか、ということを言いたかっただけだ。学べるのだから、学べば得だ、というだけのことでしかない。 子供がどう育つかなんて、はっきりいって他人事である。多めに見ても、子育ての 50%の範囲。学校の先生も同じで、子供を育てようとするあまり、自分の成長を忘れている。それは、教育の半分を放棄している姿であって、子供もそれを見抜く。ともに成長する仲間ではない、と感じるのだ。

パーツを接着してから、もう直ったから大丈夫だ、とパスカルに言ってやった。こちらも、機関車が直ったことで気持ちが治っているし、やはり、それが犬にもわかるようである。 子供や犬から、僕がどれだけ与えられたか、それがすべてだ。

via: MORI LOG ACADEMY: 犬は鏡


13 個の玉から重さ違いを見つける有名なパズルの続き。この問題では、最初に天秤の皿に 4 つずつのせる。もし、両者が釣り合ったら、残り 5 個の中に問題の玉があることが判明する。 それでは、「5 つの玉の中に重さ違いが1つだけあるとき、天秤を2回使うだけで見つけられるか」というパズルがあったらどうだろう? 実は、これは不可能なのだ。 矛盾しているように思われるかもしれない。どこに違いがあるのか、というと……。 前者の場合には、5 個の中に重さ違いがあり、天秤をあと2回使って見つけ出せ、という条件は同じであるけれど、1つだけ情報が増えている。それは、正常だと保証された玉が既に8つ発見された、という条件だ。最初に天秤を使ったとき、これが得られている。 5 つから見つけ出すには、5 つのうち 3 つを天秤の片方にのせ、最初に正常だと判明した 8 つのうちから 3 つを、もう片側にのせる。これが正解への手順である。もし、両者が釣り合えば、残り2つのいずれかが重さ違い。もし、釣り合わなければ、5つから選んだ方の3つのいずれか1つが、重いか軽いかがこの時点で判明することになる。 このように、パズルの基本とは、与えられた条件や、自分が選択した行為によって、自分が何を知ったか、を見極めることにある。問題が解けない理由の多くは、問題の条件を把握していない、自分が知っていることに気づかない、という点にあるといえる。

via: MORI LOG ACADEMY: 13 個の玉のつづき