2006年05月11日(木曜日)


なんでも同じだが、その分野へ飛び込んでいくと、近辺のものに詳しくなる。識別できるようになる。外から眺めていたときには、同類だと思われたものが何百種類にも区別されるようになる。植物だってそうだし、たとえば野鳥などもそうだろう。山菜を食べるような生活にすれば、おのずと食べられる植物に詳しくなるはず。一般の人が「電車」としか認識していないものを、マニアは何百種類にも分類し、そのなかに気に入ったものと気に入らないものができるのと同様である。 これは、文芸の世界にもいえる。仕事でつき合いのある人たちは出版社の人、文芸の人である。そういう人にとっては、村上春樹や宮部みゆきは超メジャだ。でも、小説に関心がない人(大多数の日本人)には、小説家、という職業が存在するという認識しかない。知っている小説家の名前といえば、今でも、夏目漱石と森鴎外を挙げる。たとえば、模型関係の人と話をしていると、江戸川乱歩が既に通じなかったりする。ノーベル賞の川端康成だってもう名前が出てこない。そんな馬鹿なと思うかもしれないが、客観的なデータとして実感しているところだ。

テレビ関係の人は、テレビでやっていることがメジャだと思っている。新聞関係の人は、記事になったものを、日本中の誰もが知っていると勘違いしている。かつては、そうだった。日本中の人間が、1つのことに注目した時代があったのだ。マスメディアが世間に広まった時代である。オリンピックもプロレスもプロ野球も、ヒット曲もアイドルも紅白歌合戦も、みんなが見ていた。それは、ほかに見るものが少なく、つまり貧しかったからである。 今は、誰もが自分の好きなことをしている。豊富な物質と情報に溢れている。自分の楽しみの対象がいくらでもある。そのなかで、ほんのときどき、たとえば1週間か1カ月に1度くらい、「あ、今、世間では何が流行っているのかな」と周囲を見渡す。そうしたときに、たまたまテレビや新聞の記事に目をとめる。情報はそんなふうにして広がっていくので、非常にのんびりとしたペースでしか世間に伝播しない。短時間で一気に大勢に広まったり、また一時に同じものに人が殺到するようなことは滅多にない。 今でも、昔のあの大ブームをもう一度、と煽っている人たちがいるけれど、その考えは明らかに古い。インパクトで大勢を引きつけるものがないからではなく、多すぎるからなのだ。宣伝の仕事をしている人は、この点に注意する必要があるだろう。宣伝の効率は低い。それは低迷ではなく、自然なことである。

via: MORI LOG ACADEMY: 身近なものはメジャに見える

そこで、「誰某は言った。」をさきに書き、その後ろに会話文を書いたりする。この手法もわりと多く使われている。 僕の場合は、小説を読み慣れていないせいか、このさきに話し手が誰かを書く方式をしばらく使えなかった。どうしても、不自然さを感じてしまうからだ。というのは、実際の場面で、黙って手を上げて、「あ、この人が今から話すのだな」と相手に認識させてから話を始める人が滅多にいないからだ。つまり、言葉は、まず最初に耳に飛び込んでくる。その僅かのちに、誰がしゃべっているのかを認識する。それが現実の順番だ。 そこで、 「あ、君……」と彼は言った。「ちょっと、いいかな」 というように表現すると、認識の順になる。特に、聞き手がそちらを見ていなかった場合には、声を聞いて、初めて彼を見る。だから、 「あ、君……」と彼は笑いながら言った。なんだか嬉しそうだ。「ちょっと、いいかな」 というように、彼がどんな様子かを認識してから、残りの言葉を解釈する。ようするに、その順番で情報を受け取るのが自然だと思ったので、採用しただけのことである。 英語がこのような表記になっているのも、現実認識からして自然だったためと思われる。

via: MORI LOG ACADEMY: 会話文