2006年03月12日(日曜日)


頭の中には映像がある。思考はビジュアルだ。学生の頃、文系の人が、「人間は言語で思考している」と主張して引かないので、びっくりした。それは明らかに一般的ではない。僕は言葉で思考しているのでは全然ない。たとえば、工作でどのように組み立てようか、というときに、言語を使って思考しているなんてことはありえない。言語で思考することも稀にある、というだけだ。 僕の場合は 99%は映像である。数字も映像だし、力学のベクトルも映像だ。漢字の読み方も映像。たとえば、「鎌倉幕府」というと、山門の映像があって、その山門に「1192」という数字が描かれている。そういうふうに記憶している。だから、その映像を頭の中で読んで、「いいくに」と連想するのである。右や左だって映像だ。 物語のビジュアルイメージは、小説のテキストデータよりも情報量がはるかに多い。頭の中にある映像を眺めて、その一部を書き留める。それが執筆作業である。10 の情報を見るが、次々に流れてしまうために 1 しか書けない。どんどんさきへ流れるから、早く書かねばならない。したがって、ゆっくりと時間をかけて書くことはむしろ難しい。 一方、文字で物語を読む作業とは、テキストデータを頭の中でビジュアルに展開することだ。1 しか書かれていない不足したデータを基に、10 のものを組み立てる必要がある。時間がかかる作業であり、エネルギィも必要だ。非常に疲れる。 一般に、本を早く読める人の多くは、文章を頭に入れているだけで、映像展開をしっかりとはしていない。稀に、天才的に映像展開が素早い人もいるようだが。 映像展開まではしないにしても、テキストでも展開することはある。たとえば、「こんなことを続けていたら死んでしまう」という文章を読んで、「ああ、死んでしまうのだな」としか展開しない人がいる。実は、「こんなことをしていてはいけない」と主張しているのだが、そこまで想像しないのである。これはいかにも単純な例だが、どこまで入力情報を展開するか、というところに読み手の本質的な差があるだろう。 小説の速読は、映画を3倍速で観るような実に馬鹿げた行為だと思うし、あらすじだけを把握しよう、という読み方も、小説を読む行為だと僕は考えない。まあ、人それぞれであり、トリック萌えがいるように、あらすじマニア、というのがあってももちろん自由。馬鹿げたことをするのも趣味である。すべて自由だ。 ところで、本を読む順番でああだこうだ注文をつけるのは老婆心である、というようなことを先日書いた。小説をよく読む人(つまり読書老人)は、本を再読することが多いみたいだ。再読するときは、明らかに読む順番が狂っている(次の本の内容を知っていて読むのだから)。自ら否定した読み方を、再読では試すことになるが、それで良いのだろうか(この心配も老婆心だが)。 物語を頭の中で映像展開する人は、まず再読をしないはずである。時間がかかってしかたがないし、昨日自分が体験したことをもう一度やり直す意味を感じないのとほぼ同じだ。実体験は時間の流れが止められないが、自分の頭の中の映像はある程度コントロールできるから、なおさらである。

via: MORI LOG ACADEMY: 映像展開