2006年02月18日(土曜日)


このところ、毎日機関車の部品作りで金属をヤスリで削っているが、この工作という、物質を相手にする実に具体的な作業をしていると、非常に客観的になれる。これがメリットだ。人は多かれ少なかれ主観的にものを見るのが普通で、判断の大部分は主観的である。「客観的に言って」などと口では言っていても、そのあとに続く文句の 70%以上は非常に主観的である。たとえ、客観的な論理が述べられていても、そのまえに主観的評価があって、単にそれを補強するために客観的理由が持ち出されているにすぎない。 ニュースで報道されていることも、本などに書かれていることも、客観的な観察事例は意外に少ない。また、客観的な観察に興味のない人が大多数である。 客観的なデータは、普遍性を持っているし、また地域や時代を超えて、多くの人に対して価値を生じる可能性が高い。客観視するには自分から離れる必要があるわけだが、そういった視点を持つために必要なことは一つだけ、すなわち想像力である。想像という極めて主観的な能力によって、客観的視点が得られることは興味深い。 主観を排除しろ、といっているのではない。ただ、主観さえも、客観によって初めて際立つものであろう。

via: MORI LOG ACADEMY: 客観性について

子供はあまり使わない。大人でも年輩になるほど多くなる傾向にある。政治家が多用する。なんとなく、表現を和らげる効果、不完全性を含め、防御を高める効果、があるのだが、しかし、わざわざわかりにくい表現をしている、という印象を若者に与えるかもしれない。 たとえば、「これは美味い」と言えば済むところを、「美味くなきにしもあらず」「美味いと言わざるをえない」「美味い場合がありえなくもない」「美味くなかったためしがない」「美味くないといえば嘘になる」「美味いことは否定できない」「美味い可能性がまったくないとはいいがたい」「美味くないなんて誰が言えようか」といった感じ。非常にバラエティがある。 子供が使うとなかなか斬新であるから、小さい子に教えてみよう。 「いくつ?」「僕は3歳であるといわざるをえない」 「誰と来たの?」「お母さんといえなくもない人と来ました」 「何が好き?」「チョコレートが嫌いだと言ったら嘘になります」 「幼稚園はどうですか?」「楽しいと言っても過言ではありません」 なかなかどうして、幼児に相応しくないと否定するにはあまりにも根拠が不明確だと言わざるをえないのではないか、と問わずにはいられないのではないでしょうか。

via: MORI LOG ACADEMY: 二重否定