2006年02月07日(火曜日)
人間もそうだが、生活が豊かになり、不自由が少なくなるほど、だいたい良い性格になる。物質的に恵まれていることは、人間を良くする。これが道理である。それなのに、豊かになることで人間性が失われる、という言い方をする人がいて、どうも納得がいかない。戦争だって、貧困さから脱しよう、もっと富を得よう、として起こるものが多い。たとえ宗教的なものが絡んでいても、平均的にみんなが豊かになっていくほど、争いは減るだろう。人間は、そこまで好戦的ではない。それは歴史が証明していることだ。けっして楽観的ではなく、平均的で客観的な見方である。 犯罪も、社会が豊かになることで減る。これも事実だ。したがって、平和で安全な社会を作ることと、生産効率を高めて豊かになることは方向性としては一致している。ただ、それが完全に比例していない、豊かになっているわりには、精神的な成長が見合っていない、という意味で使われた言葉が、いつの間にか一人歩きしているだけだろう。 一方では、豊かになって満たされることで、たとえば芸術を推し進めるハングリィな精神が失われる、という面はたしかにあるかもしれない。特に若いときには、物質的なハングリィさが、クリエーティブな動機に結びつく例もある。人によるとは思うけれど。 いずれにしても、人間は、一般に完全に満たされることはない。そのときどきで、ある程度の満足、達成を味わうことはあっても、すぐにもっと大きな容器を用意して、まだまだこれからだ、と思おうとするものだ。 ゴールすることに重きをおくか、その手前のゴールを目差す状況に重きをおくか、という違いは人によってあるだろう。前者が大多数だと思う。社会は結果を求める。勝敗に拘る。他人に認められるのはあくまでも成果だ。 ただ、僕は明らかに後者であって、ものごとを達成することにはほとんど意味を見出していない。勝負が決まることも、結果が明らかになることも、特に重要なことだとは考えていないようだ。したがって、満たされつつある池の水位よりも、そこに流れ込む小川を眺めていたい方である。