2005年12月03日(土曜日)
イギリスの鉄道の駅にはフェンスがない。どこからでも構内へ入れてしまう。改札がないからだ。スイスなんかも線路に柵がないところが多い。また、アルプスの風光明媚なハイウェイにはガードレールがない。そこを大きな観光バスが走り抜けていく。日本では考えられない光景だ。 事故があったとき、ガードレールがなかったからだ、と非難されるのを避けるために、もうどこにでもあの白いガードレールがあるのが日本の道。交差点にはどんどん信号をつける。横断歩道を設ける。ひと頃は歩道橋をとにかく造った。 そういった手を打っておけば、「事故になったのは、信号を無視したせいだ」「歩道橋を渡らなかったから悪い」と言える。つまり、日本における「安全」とは、自分の責任を回避するためのものであり、ようするに「行政の安全」だといえる。 物理的な安全対策は速効的であり、たしかに一時的な安全が確保される。できるかぎりのことはすべきであり、技術と資金はそのためにある、という考え方は間違ってはいない。数々の安全システムを設け、人為的ミスをカバーすれば、信頼性はアップする。唯一のデメリットは、こうした何重もの安全が生みだす安心が、しだいに人の油断を招くことである。最近の鉄道や飛行機の事故は、既にこれを実証しているだろう。 これとは逆に、ガードレールを取り付ける予算があるならば、バスの運転手の賃金を倍にすれば良い、そうすることで優秀な人材が運転手になる、また仕事に誇りを持つだろう、という考え方が、ときどき外国で観察されるものだ。装置やシステムだけでなく、人間に投資する、というこの手法が、何故日本では滅んでしまったのだろうか。 日本の犬はみんなリードを付けないと外を歩けない。危ないものは檻に入れておけば安全だ、という発想だけで、本当の安心を得られると考えているのは、まだ幼い社会だと思える。